将軍塚から所沢市金山町まで

「鎌倉街道を歩く」のスタート地点は埼玉県に最初に入る(鎌倉から高崎に下る方向)将軍塚から始めます。

東京都、神奈川県、群馬県は埼玉県が終わったら考えます。

将軍塚は埼玉県にありますが、八国山緑地の入口は東京都でした。表示には東京都東村山市諏訪町2丁目24番地と標示があります。

将軍塚へ上る道。

1月なので落ち葉がだいぶ積もっており、すれ違う人もいませんでした。

将軍塚の前にある元弘青石塔婆所在跡の大きな石碑がありました。奥に見えるのが将軍塚です。

将軍塚の脇にある表示板に以下のように書かれていました。

 

狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山(はちこくやま)と呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。

元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指が原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられている。江戸時代に編纂された「新編武蔵国風土記稿」には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。

八国山中腹から所沢市内方面を望む。樹木が邪魔をしてよく見えません。

八国山の北側の細い道。

埼玉県側ではここから歩くと一番上の写真の場所に出ます。

上の写真の左側の道(北側)を行くと丁字路にぶつかるバス通りに出ます。

バス通りを左(西)に数百メートル行くと悲田処跡のバス停があります。

悲田処跡については後で述べます。

長久寺

悲田処跡のバス停を東に道なりに進むと柳瀬川に架かる勢揃橋に出ます。この橋の名前は近年になってついたそうですが、ここはその名の通り新田義貞の軍勢が勢揃いしここから鎌倉を目指したとされる場所なのだそうです(テレビ埼玉編 鎌倉街道夢紀行より)。さらに100メートルくらい北へ進むと勢揃橋北の交差点に出ます。三叉路を北西に100メートルくらい進むと右に長久寺が見えてきます。

門前の碑によると開宗は鎌倉末期と書かれています。長久寺の墓地の前を進むと西武池袋線にぶつかります。

私は間違えて久米下組集会所を右に見て進んで南陵中学校のところまで来てしまいました。

所沢南小学校の西側の十字路を北に進みます。鎌倉街道は小学校の西側の道のようです(この道は南に進むと西武池袋線にぶつかりここで道が途絶えています。少し進んで右の踏切を渡ると長久寺のところに出ます)。

北に進み、駒形の三差路を突っ切り細い鎌倉街道を進みます。

所沢富士幼稚園の前に鎌倉街道の表示板がありました。

實蔵院

道を進むと右側に實蔵院の裏手の墓地の脇に道が走ります。「野老山實蔵院」と表示されています。「ところざん」と読むようです。

小金井街道に出ます。道の向こうに細い鎌倉街道が見えます。

 

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