神田川沿いを歩いてみました。

神田川を歩く 井之頭恩賜公園から隅田川

第1日目源流から明大前まで。9.1km、15926歩、2時間30分

井の頭恩賜公園の池の湧水池

今から60年以上前兄たちに連れられてここで遊んだ記憶があります。当時は水量がもっと多く、木で作ったゴム動力の潜水艦を走らせて遊びました。

水源からやく6km地点

杉並区内高校生が体躯の授業でマラソンをしていた。



流域の寄り道

東京都指定遺跡 井之頭池遺跡群

井之頭公園内の東京都教育委員会の案内板より

井の頭遺跡群は、井の頭池周辺の武蔵野市、三鷹市にまたがる大規模な遺跡群です。明治20年(1887)には学会に紹介された著名な遺跡です。井之頭恩賜公園のうち、池周辺は「井の頭池(神田上水水源地)」として旧跡指定されており、外周の高台から斜面にかけての約5.5万平方メートルが史跡に指定されています。

昭和37.38年に武蔵野市史編纂事業などにより発掘調査され、縄文時代中期から後期の竪穴式住居3軒、敷石住居跡1軒などが発見されています。遺跡周辺は宅地化が進み、史跡内は公園のため開発事業ができないことから、全体像は良くわかっていません。井の頭遺跡群全体では縄文時代の住居跡60軒以上や旧石器時代の遺物などが発見されています。また、中世段階の遺構や遺物も検出されています。武蔵野台地に見られる湧水池周辺の旧石器・縄文時代の代表的な遺跡といえます。

平成22年3月 東京都教育委員会

 

この案内板は弁天様の社殿の入口に掲示されています。

今日の道のり


第2日目

神田川歩き2日目予定は井の頭通りと交差するところから東中野迄

12時10分から14時5分まで10245歩6.6kmでした。

本日スタート地点がいきなり側道が歩けず。

真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像。平安時代(12世紀前半)に造立されました。

開創は明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応2年(1493)寂と伝えられています。

次号の「龍光」は、当寺のすぐ下を流れる神田川の源、井の頭池に住んでいる巨大な 竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。

江戸時代、当寺の本尊は難病に御利益がある薬師如来として信仰あつく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保2年(1742)銘の梵鐘にも、「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は、昭和29年に造られたもので、区内では最も大きいものです。

当寺に伝わる文化財としては、室町期に作られたといわれる興教大師像、文明2年(1470)銘・明応5年(1496)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。

また、当寺は明治初年に廃寺となった慈冠山日照寺を合併しています。  (杉並区ホームページより抜粋)

熊野神社

熊野神社は、社伝によれば、文永4年(1267年)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが当神社の創建である。弘安7年(1284年)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも社殿を修めたと伝えられる。江戸時代には寛永16年(1639年)と元禄9年(1696年)の両度にわたって社殿の改修をおこなった。別当寺は隣接する龍光寺であった。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営で、明治4年(1871年)に修復したもの。また、境内には徳川家光が鷹狩りの途中で休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もご神木としてある。(ウィキペディアより)

東中野迄の流域の風景

今日の道のり

東中野から飯田橋まで

南小滝橋より川下を望む

小滝橋とその由来

南小滝橋から少し歩くと小滝橋にあたる。橋のたもとに小滝橋の由来がかかれた看板がある。

その間版より。

神田川に架かっているいるこの橋は、江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に掛けられていた板橋です。

小滝橋という名はかつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝となっていたことから名付けられたといわれています。

今はもうこの堰は残されていませんが、吉祥寺にあった油屋の小僧が大蛇を切ってしまい、その下あごの骨がこの堰まで流されてひっかかったとう昔話が伝えられています。

(新宿区 道とみどりの課の表示より)

落合水再生センターの前の陸橋の上から川下を望む。

西武新宿線下落合駅近くの妙正寺川。

神田川に架かる東京富士大学の渡り廊下

高田馬場近くの山手線を望む(山手線の外から)

高田馬場近くの山手線を望む(山手線の内側から)

高戸橋と高田馬場分水路

面影橋の由来

目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。

橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこの辺りで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。

なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので別の橋だという説もあります。

新宿区 道とみどりの課の案内板より

源より17.1キロメートル、隅田川まで7.5キロメートル地点。

胸突坂

目白通りから蕉雨園(しょううえん)(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。

坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。

ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。

文京区教育委員会説明板より

関口芭蕉庵

この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修時に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んでいたと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。

享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後去来、其角嵐雪、丈草の像も堂に安置された。

芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したといわれている。そこで寛永3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれるものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓した。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。

芭蕉庵の建物は、昭和13年(1933)㋂、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし昭和20年(1945)㋄の戦災で焼失した。

敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。

文京区教育委員会 表示板より

江戸川公園

石切橋

石切橋の由来

この橋は江戸時代の初期、寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが、定かではありません。

明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半、幅3件(およそ長さ15m、幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。

中流域に当たるこの付近では、昭和40年くらいまで神田川を江戸川という名で呼んでおり、この橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。

新宿区 みどりの課の表示板より

文京区 旧市兵衛河岸(昭和39年までの町名)

小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で、水道橋から船河原橋までの河岸地である。「江戸砂子」(享保17年・1723)に、牛込御門の外なり、岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいうとある。この市兵衛から町名をとった。

昭和15年の改正で、市兵衛河岸を分けて、一部は小石川1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて、残地がわずかに残った。

神田川の昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。

また、荷物を岸に揚げる物揚場があった。東京砲兵工廠のあったころは、工廠の貨物が揚げ下ろされた。

文京区の表示板より

 

水道橋から御茶ノ水近辺

秋葉原近辺

秋葉原から柳橋まで

今回の足跡