江戸の上水道、井の頭上水ともいった。玉川上水とともに江戸の二大上水道として江戸の武家・寺社・町方の生活を支えるのに大きな役割を果たした。水源は武蔵野の井の頭で途中善福寺池から流れ出る善福寺川、妙正寺から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ、淀橋で玉川上水の助水を入れた。

井の頭池から江戸に入る目白下大洗堰まで5里足らず、さらに関口水道町、小日向水道町、金杉水道町の3町をとおり水道橋に至る。ここまでが開渠で水元と呼ばれる。ここからは掛樋で神田川を渡し江戸城に入る。これ以遠は江戸内と呼ばれ、暗渠で郭内から江戸の町々、寺社に排水された。

開設は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎忠行が、家康の関東入国に先立ち開いたとも、内田大次郎が慶長ころに開いたとも伝えられている。大久保藤五郎は神田上水開設後主水(もんど)の名を与えられ江戸城御用の菓子司となり、水道経営にはたずさわらなかった。これに対し、内田六郎は水元役となり、以後代々神田上水の経営にあたった。内田家は1770年(明和7年)茂十郎の代に水元役の退役を命じられ、神田上水は幕府が直接経営することになった。

水道料は水銀(みずぎん)と呼ばれ、武家からは石高割で、町方からは間口割で徴収した。内田茂十郎は1732年(享保7年)から同家が水銀を徴収するようになったと称しているが茂十郎が水元役を退役してからは江戸城御金蔵納めになった。神田上水保全のため目白下大洗堰までは沿岸の村々が持ち場をきめて上水縁の草を刈り、上水の水を汚さぬよう監視に当たった。大洗堰から下流の開渠部分については関口・小日向・金杉の水道3町が保全の仕事に当たり上水浚いを負担した。この上水浚いは後に請負人の請負でなされるようになった。このほか大洗堰、牛天神下、小日向、大日坂下、水道橋外掛樋際に番屋が置かれ、水番人、見守りが上水保全を担当した。(平凡社 世界大百科事典より)